After the Pleistocene

A memory of my ramble
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下総国葛飾郡
 高校の国語の時間、『葛飾の真間の手児奈』と出てきて、これは『市川』の間違いではないかと最初は思った。通っていた高校が東京都葛飾区にあったから。だが確かまだその頃には『葛飾』という京成の駅名(現在の西船)があって、だんだん葛飾という地名がこの地域一帯を広く覆っているのが判ってきた。船橋の大神宮も古くは葛飾郡意富比(おおひ)神社という。
 現在の利根川に当たる川筋は太白川(おおゐかわ)と呼ばれ、現在の中川辺りを流れて江戸湾に注いでいたらしい。江戸時代に至って川筋を変更して銚子の方にながれるようになった。(webの『利根川東遷慨史』に詳しい。)この太白川の東側が下総の国葛飾郡。(西側が武蔵の国)だから国府台の高台から小弓公方の足利義明がはるか眼下の葛飾の西部を望み見て、一瞬「ここはわが領域」と思ったとしても無理はない。だが現在の青戸辺りに北条氏が江戸城の出先・葛西城を築いて立ちはだかっていた。(現在の東西線の葛西駅とは大分方向がずれるが。)時は天文7年(1538)、第一次国府台戦争。
 上総の武田氏や安房の里見氏の後ろ盾で小弓公方は古河公方に反抗しようと最初は威勢がよかった。古河公方の主体は小田原の北条氏綱の軍勢。その傘下に下総の名門・千葉氏が参じた。本来は北条氏などよりずっと格が上のはずだった。平家一門なのに頼朝の旗揚げに協力して勢力があった千葉氏も、その後内部分裂を繰り返すうちに弱体化しており、やがて秀吉による関東攻めで、北条氏とともに滅んでゆく運命にあった。
 なぜ千葉氏が下総の領地で経営手腕を発揮できなかったのか、天下を狙うとまで行かなくても、少なくとも常陸の佐竹義宣ほどの腕力を見せてくれたらよかったのにと残念に思う。あの上杉謙信の激しい攻撃にも耐えられたのだから。因みに旧馬加城近く幕張の子守神社の紋は、千葉氏所縁の九曜紋である。 
 
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