After the Pleistocene

A memory of my ramble
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松戸・戸定邸へ散策
 徳川昭武は当時14歳で、1867年のパリ万国博に15代将軍慶喜の名代として派遣された。慶喜の頭の中では、次期の将軍は昭武と思っていた節がある。動乱の世も治まって、明治17年に昭武が別邸として建てたのがこの屋敷。江戸川の川辺に立つ高台から、遥か江戸の空に雄大にそびえる富士の高嶺を望める・・・と、案内の人は熱心に語るが、あいにく姿は見えない。それに金町のノッポのマンションが景観を邪魔しているような気がする。
 庭はそれほど広くはない。しかし芝生にツツジ、サクラ、マツの木立がさすがによく手入れされて配置され、気持が和む。64畳もあるという客間は、畳敷きの縁側の外側にさらに絨毯敷きの縁側がある。しばしそこで休憩を取った。庭の広さは佐倉の堀田邸(厚生園)よりやや小ぶりである。
 明治も半ば過ぎ、あの写真好きの慶喜公がしばしばこの地を訪れたようだ。勝海舟らの忠告もあったろうが、明治になってから一切政治的発言を慎んだ慶喜公は、明治時代を生き抜き大正2年(1913)に亡くなっている。慶喜公に倣った所為か、明治期の徳川一族で際立った活躍をした人物を知らない。昭武は、函館五稜郭に立てこもって独立を目論んだ榎本武楊らに君主と望まれたほどなのに逆に彼らを追討する立場に置かれた。だから、本来なら昭武にもっといろいろなエピソードがあってもよいのにと私は思った。・・・そして明治維新なかりせば、もっとのんびりとパリ留学を過ごせたかもしれないと、この同じ縁側に立って思っていたかも。
 
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