After the Pleistocene

A memory of my ramble
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映画「沈黙」
 「神はなぜこのように苦しんでいる我々の前に現れて、なにか明示してくれないのか?」神の実在を信じ、神による救いを信じている者たちの前に、なぜ神は沈黙したままでいるのか、と厳しく問う遠藤周作の小説がマーティン・スコセッシ監督の手でハリウッドで映画化された。
 キリシタン禁制の徳川時代、先に日本へ布教に赴いた信仰篤きフェレイラがどうして棄教することになったのかも確かめたく、また二人の宣教師が新たに日本に派遣されてきた。一方幕府の政策は単に宣教師や信者たちを根絶やしにするのではなく、彼らの棄教を図ることに重きが置かれていた。拷問や踏み絵で激しく彼らを揺さぶり、「転ばす」ことを主眼とした。一層のこと殺してしまった方が手早いはずなのに。いや、そうではないのだ。その信仰そのものを否定しなければ、次から次にまたその追従者が現れてくることを為政者は知っていた。その数は限りなく自分たちの天下が覆される可能性を秘めていた。かって仏教徒も迫害され、いままたキリシタンも追い詰められていたが・・・
 宣教者自身への拷問には耐えられても、信者たちへの迫害の凄さに怯えて堪えられない事態に。フェレイラも耐えられなかった。でも考えてみると、宣教師たちは信者たちの苦しみを和らげるために棄教する必要はなかったかもしれない。迫害されたかっての仏教徒も、今またこれらのキリシタンも、この世は有限で、永遠の平安が続くパライソ(浄土であり、天国でもある世界)が死後にあることを信じていたのだから。彼らにとって神の沈黙はあの世の平安を予知させるものであったと私は思う。
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