After the Pleistocene

A memory of my ramble
CALENDAR
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
SPONSORED LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
MOBILE
qrcode
PROFILE
OTHERS
無料ブログ作成サービス JUGEM
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | ↑PAGE TOP
黒塗の御膳
 生意気盛りの中学一年の時、夏休み一人で、東京から父親の茨城の実家に旅行した。戦後の食糧難の時代に何もない都会より田舎の方が健康に良いだろうと思ったのかもしれない。敗戦間際から3年ばかり一緒に暮らしたこともあり、従兄弟たちとは十分顔見知りだったし、叔父や叔母たちからも平等に扱われた。
 しかし、その初日の晩夕餉の席について驚いた。叔父の横にポツンとひとつ黒塗の御膳が置かれて、自分の席を指定されていたことだった。4、5人の従兄弟たちは別の部屋で一緒に食事をしていた。食事の間少し会話は行われたが、静かでのんびりとした時間がそこには流れていた。
 黒塗の御膳に最初びっくりした。もしかしたら今の自分のちょっとした都会住まいに少し鼻が高かったのかもしれない。今風に言うならば、足のついたトレーに料理が2、3品載っているだけに過ぎないかもしれないが、そこにはとても太刀打ちできない伝統やら格式も一緒に運ばれてきた感じがした。
 そう、食事には神様、仏様に捧げた食物をわれわれ人間どもも相伴させていただくという意味も込められている。新型コロナウィルスの跳梁跋扈以来、テレビはやたらと食事、グルメに関する番組が多くなったが、そんなことはすっかり忘れられてしまった。見ず知らずのところにズカズカと入り込み、たらふく飲み込んでは、ただ「うまい!」というだけの映像はもう早くやめて欲しい。季節の移り変わりで素材を選択し、料理方法を変え、それを皆で味わってこそグルメの神髄だと思うのだが・・・・


| Food | 11:37 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
祇園祭の中止
 今年の京都祇園祭は、新型コロナウィルスの影響で中止に追い込まれた。主催者側の発表を聞いているとその悔しさが滲みでてきて、深く同情してしまった。この祭りが平安時代初期貞観年間に起きた悪疫退散に由来していることを考えると、この決定は断腸の思いがする、苦渋の選択だったと彼は語った。こちとらは長鉾などの立派な山車が今年は見られないか、ぐらいにしか始めは考えていなかったけれど、これまでに重ねてきたいろいろな準備のことを考えると、なんとも言えない気分になる。そして更になによりも、この新型コロナを追い払おうという人々の願いを一つに纏めることができない、もどかしさがイライラの原因かもしれない。
 この貞観年間(AC859 ~877)という時代は、大変な自然災害が次々起きた。大地震や東北大震災並みの大津波に見舞われ、富士山や阿蘇山は噴火爆発するし、鳥海山や開聞岳までつられて噴火している。そして人口の多い近畿地方に悪疫が猖獗した。人々はなんでこんなにいろいろ不幸が押し寄せてくるのだろうと思っただろう。現在のコロナですっかり打ちひしがれた人々もみな同じ境遇である。公表されたところでは、現在までの世界の感染者数は943万人、死者は48万人にのぼるという。 
 東京入谷の朝顔市(7月6日)や、浅草のほうづき市(7月10日)も中止となった。ほうづき市の母体、四万六千日の法要はやるんでしょうなあ。先の大戦が終わる頃、池波正太郎は米子の海軍航空隊にいて、東京の母親から手紙に今年も四万六千日の行事を行うと知って大変嬉しかった。戦前下町の人々は絶対に浅草は焼けないという信仰に近い信念を持っていたが、それも見事に覆されて一面焼け野原にされてしまった。それでも行事を行うという。戦場では兵隊たちが銃砲に倒れ、飢えに苦しみ、本土では空襲の戦火に追われて逃げ惑う。こんな時期に四万六千日の行事を施工する、彼は名状しがたい気分になったという。戦争は負けてもきっと立ち直って、新しい国を再建できると確信したという。素晴らしいことだよね。
| Diary | 17:11 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
松本章男 「業平ものがたり」
 昔の歌詠たちは何百という歌の引き出しを頭脳に持っており、一つの歌が持ち出されると、その歌がどんな状況で誰が詠ったか、それに対してどう相手が反応したか、それが別の場面、別の人物ではどう変化したか、たちどころに引出される。それが彼らの高い教養の現れでもあった、と高校の古文の時間の始めの頃教わった。小野小町などと並んで三十六歌仙の一人に選ばれている伊勢は、平安中期の代表的な歌人でもあった。小倉百人一首に選ばれた歌。
   
  難波潟短かき蘆の節の間も 逢はでこの世を過ぐしてよとや 

 そんな高級女房の一人である彼女が、当時僅かに残されていた業平の一代記をバラして、その政治的色彩を薄めて編纂し直した、と著者松本章男は述べる。彼女自身も時の藤原政権に批判的で、業平の生涯に強いシンパシーを抱いていた。だから『伊勢物語』というのだという。私はこれを初めて知った。単に色好みの男というだけでない政治的な不遇を。
 この日本一のモテ男と言っても良い在原業平という人物は一体どんな男だったのだろうか?背が高いとか太っているとか髭面だったとかすばしっこいとか、冗談を言ってよく人を笑わすとか、そんな風貌はどこにも出てこない。その場の人々を感激させて落涙させることはあっても、自分は決して泣いていない。 
 
  なにし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと  とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり

 しかしこの男、実にマメに女性の面倒を見る。武力的な側面は全くないが、経済的に女性を面倒を見るようなことを後年にはしている。製塩の事業で成功したようだ。意外と骨太な実態を垣間見る感じがする。「実在の人物でありながら架空の衣装を着せ、架空の人物と見せかけて、実在の人物の名を語る」、これは伊勢だからできたことであって定家では無理だったかも知れない。
 物語最大のラブアフェアは伊勢神宮の斎宮恬子(てんし)内親王との禁断の恋。まさに身も心も張り裂けんばかりの短いひととき。「まだ何ごとも語らはぬに、(女は)帰りにけり。男、いと悲しくて、寝ずなりにけり。」

  君や来し我や行きけむおもほえず 夢か現か寝てかさめてか

 
| Book | 07:55 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
NHK 『麒麟がくる』
 本木“道三”の最期、修羅場と化した戦場で気合いのこもった槍の妙技を見せて大いに沸かせてくれた。今度は海老蔵が歌舞伎座の舞台で是非演じて欲しい。16世紀後半、戦国時代の終わりは随分知れわったていることが多いと思うが、中でも司馬遼太郎の「国盗り物語」の影響は大きい。このドラマもどこまで独自性を発揮できるか?
 まず人々の衣装や行動が明るい。道三と信長が会見した聖徳寺の場面設定でも、「国盗り物語」では信長が盗み見されることを十分に予知して行動しているのに、このドラマでは「さもあるか、・・・」ぐらいの軽い気持ちで受け流されている。私もこちらの方が自然だと思う。しかし光秀とお駒が一緒に旅する場面では、何故グイとお駒の肩を抱き寄せて熱い抱擁が交わせなかったのか、と不自然に思った。(NHKの倫理規定違反なのか?)
 斎藤道三としては、息子高政が家督を正式に継いだら、もっとまともな政治をし、道三をも大事にしてくれると見誤った。このドラマの視聴者と同じく、なぜそれほどまでに土岐源氏の血筋を大事にするのか分からない。明智光秀も土岐源氏の端くれにいる。
 ドラマはこれから佳境に入って、光秀が細川藤孝や三淵藤英など足利将軍義輝の奉公衆の下働きとなって政治の裏面をも知る年月が流れる。私はあまり信長との対決姿勢を露わにしないほうがよいと思うが・・・・信長の身の上でも近江口や越前においてなど何度も虎口を逃れる危うい目に出遭っている。結果が分かっているドラマの、それでもなお身を奮わせるような感激を味わえるだろうか。本能寺決行前の句会で光秀の発句について。
      
    時はいま 天が下知る五月かな
| Movie | 10:52 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
T子叔母さんのお別れ

JUGEMテーマ:モブログ


 一月も半ばを過ぎて、父母の田舎、茨城から悲しい知らせがやってきた。父母の兄弟姉妹の内、一番最後のテル子叔母さんが亡くなったのだ。二年前「私も90歳の坂を登り始めました。」と達筆のペン書きで、年賀葉書一杯にぎっしり近況を伝える文章を乗せてあったのに。だが昨年も今年も彼女からの年賀状は届かなくなった。
 二年前には家の近くにある老人ホームのデイサーヴィスに毎日出掛け、「皆さんと楽しく笑い合い、話し合ってたのしんでいます」と書いていたのに・・・。大農家の男の子ばかり6人の兄たちの最後に彼女はただ一人の女の子として生まれ、親や兄弟たちからは相当可愛がられたそうだ。16歳の時から東京に働きに出た私の父からも、あるとき浴衣地を贈られて、お嫁に行くときも持って行ったと懐かしそうに話していた。「うちのオヤジもいいところがあったのだなあ!」
 そうはいっても、男たちにもまれたテル子叔母は、声も身体も大きかったし、態度もデカかった。われわれ甥っ子や姪っ子はみな母親以上に怖い存在だった。それでも東京育ちの私にはいつも特別目を掛けてくれたように感じていた。本当にありがとうございました。ご冥福を祈ります。合掌 
| Diary | 22:31 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
年賀状の打ち止め

JUGEMテーマ:モブログ


 明けましておめでとうございます。本年も御贔屓に。
今年も多難な年を予測させるような事件が年初から次々起こっています。昨年、台風19号の災害や京都アニメ事件のような悲惨な事件は全く予測できなかった。今年も戦争のようなことにならないよう注意を集中したい。
 今年の年賀状には混ざっていなかったが、来年から年賀状の打ち止めを宣言する知らせはちょっともの悲しい味わいを込めていつもいろいろ考えさせられる。自分ももう年だし黙ってやめてもなにもおかしくないのだが・・・来年は潮時かも。
 簡単なネズミの絵柄、字句だけ年賀状を名古屋の息子に送って、『なんだよ!この年賀状は。』と怒られてしまった。いつも一言、二言文字を添えていたのに、慌てふためいて出してしまったのは全くの失策だった。言い訳するなら、いつもの家族写真が揃わなかったこと、パソコンの扱いがさらに下手になって思うようにアウトプットできなくなったこと、さらに投函の時間が迫ってきてたことだ。
 頂いた友人たちの年賀状で出色なのは、『家族写真を撮るときに「お爺様右に」と言われ、自分と気付くのに時間差がありました。』という仙台の友人の賀状、『人生の先輩も少なくなり、寂しい思いです。』と私と共通の友人を失くした練馬の友人。病気療養中の友人たち、運転免許を返上したことなど知らせる賀状などいろいろあったが、水害に遭った筈の茨城の友人がなにも伝えて来てないのはどうも気になって仕方がない。こちらも体調不十分で積極的に励ましを送ることができなかったのが残念である。
| Diary | 14:44 | comments(1) | - | ↑PAGE TOP